Koji Shiroshita 城下浩伺

京都芸術センター STUDIO OPEN DAY VR公開制作

2023.3.26

京都芸術センター

サウンドインスタレーションアーティストの大田高充、XR/Webクリエイターのみふくと共に、VR作品の公開制作を行った。

城下はVR空間の中でドローイングを描き、大田は城下の所作やVR体験者の動作から音を生成。みふくはこれら2つの素材を使って、VR/AR作品としての仕上げを行った。
城下のVRドローイング完成後、鑑賞者もVRゴーグルをかぶってVR作品を鑑賞。
その後、各自のスマートフォンでAR作品を鑑賞、京都芸術センター内の好きな場所に出現させて、写真や動画を撮影してもらった。

京都芸術センター STUDIO OPEN DAY VOL.2


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Review

城下さんとは、2013年の初個展から近くで作品をみてきた1人だと思う。ただ、城下浩伺という美術作家の作品性についてはあまり語ってこなかったと自覚している。本題に触れる前に、なぜこれまで作品について語れなかったのか。ぼく自身が作品を評価することに不慣れでもあったし、城下さんが絵に向かう姿勢をみていると他者の介入を拒んでいるようにも感じていた。作品を評するだけなら介入とも言えないし、そこまで慎重にならなくてもいいのかもしれない。でも、城下さんの展覧会に関わってきた間柄では与える影響が大きい気がしていたし、言葉よりも態度こそが形になることもあるし、ひとりの作家と向き合う姿勢で応えるほうがよいと思っていた。

美術作家が生み出す1枚の絵はそれ自体で完結していて、鑑賞すること以外に他者が入り込む余地はない。描かれた世界は不可侵だ。城下さんの作品はそれが顕著で、画面には塵ほどの綻びもゆるさず、他者が手を加えようものなら世界のすべてが崩れてしまいそうな危機感を抱く。作品に踏み込むには、刺し違える覚悟とでも言える同等の精度か、それに変わるきっかけが必要だ。少なくともぼくはそう考えてきた。

そこで、今回は「サウンド」と「VR/AR」クリエイターとの共同だ。鑑賞者がVR/AR空間に描かれたドローイングの痕跡(筆跡)を内外から鑑賞(体感)することもできる。実際に鑑賞と体験を通して実感したことは、技術としてのメディアが作品への介入を可能にしたということ。城下さんの表現が「抽象的」であることはその親和性を高めてもいただろうけど、具象・抽象は程度の問題で、「ドローイング」「サウンド」「VR/AR」を体験的につなぎ重ねあわせる技術があるからこそこの共同が実現できる。それが作品世界へ侵入するためのきっかけだ。異なる媒体を変換させ、その接続詞となることが「中間」を語源とするメディアの本質だとも思う。

そして、異なる媒体が交差する取り組みだからこそ、さまざまな視座から批評し、評価することもできる。パフォーマンスとしての「企画性」にはじまり、アーティストコレクティブとも言える「協働性」、テクノロジーとしての「技術性」、そして美術作家としての「美術性」など、いろんな観点でとらえることができる。

城下さんの美術性(作品性)について取り上げてみると、文字通り作品に入り込むことができたのは技術の力だが、それだけでは不十分だ。ある美術作品がそれとして価値をもって鑑賞に耐えうるのは、それだけの精度と個性が保たれてのことであり、それが独立した作品の証でもある。今回のような共作では、鑑賞者を含め他者が入り込む余地が必要だし、それでいて作家としての個性が担保されていなければならない。その点で捉えるなら、今回の試みにおいて、城下さんの作品には人が介入できるだけの寛容さとぶれない強度を備えていることの証明になったと言える。他の要素が混ざり本来の作品性を失うのなら、それはもはや世界の崩壊とでも言えるだろう。大げさな比喩ではなく、肉筆の原画では考えられないことだ。あくまで城下さんの「ドローイング」を軸にした、サウンドの太田さん・VR/ARのみふくさんによる絶妙なポジショニングがあればこそだが、個性を保ちながらも共作が成立するためには、本質的に作家としての寛容さと強さが必要だ。デジタル空間に描画することで浮き出せた作品の強度と言ってもいい。

他者への寛容さで言えば、城下さん自身が「作品はどうみてもらってもいい」と言うように、解釈への余白は常に開かれている。でも、寛容といえば聞こえはよいが「この作品をどうみますか?」とこちらの鑑賞力を試されているようにも思う。解釈への自由を与えられながらも、自身の感性に向き合わされているような力を感じるのだ。これまで作品について語れなかったのは、それを避けてきただけなのかもしれない。城下さんの絵と制作への意志から受け取れるのは、おおらかな自由さと、自由であるがゆえに必要な覚悟や集中、創造力だ。描くことで「世界とひとつになる」と話す城下さんの感覚は、世界を創造しているからこそ降りてくる一体感なのだろう。

もうひとつ、美術の枠組みをすこし広くとらえたとき、VRドローイングというアプローチはどのような展開をみせていくのだろうか。たとえば、美術館に行くと額におさめられた絵が壁にかけられていて、それを鑑賞できる。鑑賞料として入場料を支払う。ギャラリーでは気に入った絵を買って自宅に飾ることもできる。作家と鑑賞者の間には、価値の交換としてわかりやすくパッケージされた仕組みがある。しかし、実験的に行われたVRドローイングは、まだ見ぬ可能性へのプロセスでもある。進化するメディアと変化するコミュニケーションによって、鑑賞の手法がどのように対応しパッケージされていくのか。視覚や聴覚から触覚をも超えてメディアが交差する先に、新たな鑑賞体験が価値化されていくかもしれない。

アートという大きな物語の足跡には、道筋を変える分岐点がいくつも存在する。展覧会の形式や登場人物に新たな役割を与えたハラルド・ゼーマン、アーティストという主役のあり方を問うたマルセル・デュシャン。でも、あらゆる道やその先のフィールドが独立して存在しうる現代において、あらたな分岐点は生まれるのだろうか。いずれにしても、物語の楽しみ方が増えることは豊かなことだろう。

ガラスのように平滑な水面に一石が投じられたとき、波が立つ。その波紋から新たな水脈が生まれるのか、あるいはさざ波で消えてゆくのか。ぼく自身がVR初体験でもあった高揚感を加味しても、この実験的な試みはわくわくとする体験だった。きっと、その場に居合わせたひとたちにも、この波紋は確かな感覚として触れることができたのではないだろうか。

林智樹
Act / まとめ役
アトリエ インカーブ / ヘッドチーフ
アート活動に取り組む福祉の事業所に務めながら、公私で作家をサポートしている。
城下浩伺とは2013年に開催された初個展から関わりを続けている。

公開制作の主役である城下浩伺さんのVRゴーグル姿は妙な迫力がある。黒光りする大きな目隠しをした長身の男性が、キビキビ動き続けているからというか。その所作もなんだか変で、パントマイムにしては何を表しているのか分からないし、現代舞踏ですと言われたらそうなのかと思ってしまうかもしれない。無論それはドローイングを描いているからで、その絵の様子も設置されたモニターを通してみることができる。この日、もう一人の主役である、サウンドインスタレーションの作品制作を手がけている大田高充さんによって、浩伺さんの手足には小型の音響部品が取り付けられていた。それらは動きに応じてノイズが発生するようで、どこか野鳥のさえずりに、あるいは古い自転車のブレーキにも似た甲高い音色が、浩伺さんの身振りから響きわたっている。

この二人の姿を通して自分は、一つの部屋に並存する複数の観点を意識していた。当の僕自身は一眼レフを持って、その状況を写真に記録するという役割でその場にいた。いわば写真という一つの観点として、カメラという操縦席から、ファインダー越しの光景に意識を向けていたわけである。そしてその視界に映る、VRヘッドセットを装備した浩伺さんの意識は、仮想空間へ向けられている。中空を眺め、空書するようにコントローラーをかざす動作も、すべてヴァーチャルに向けて行われている。大田さんはレコーダーを片手に構え、実空間に置かれたその当人の身体から生じる音像に焦点を合わせるように、耳を澄まし続けている。二人は同じ部屋で、かつすぐそばに位置しながら、全く異った観点に立ち、別の次元をみているという構図になる。ひとたび観客席に座れば、VR上の絵の様子はモニターでわかるし、音も聴こえているし、どこにレンズが向けられているかも見える。ただそれは実空間での物理的な表層であって、各々が向ける意識まで読み解くことは難しい。全体の鑑賞もまた一つの観点なのだと感じる。

この場に併存する個々の観点には、カメラ、レコーダー、そしてVRといった、何かしらのテクノロジーが接続しているということも気になっていた。各々のデバイスは、オペレーターとしての当人の外付け感覚器官のようにして起動し、知覚領域の深部に触れていくことを可能にしている。こうした技術との協働によって、人の神経系や身体感覚の独自な発達はあるだろうし、それはイマジネーションの深化でもあると思う。そうした基礎が二人の意識にはあり、(またその基礎の形は人それぞれ違っていて)だからその先を他者である私たちはみれない。そんな当たり前のことを、この実験的な場を通してあらためて思う。「芸術は、われわれの生きるこの『現実』の地平とは別の次元に、もう一つ別の地平を生じさせる。」という、芸術の中動態という著書にあった森田亜紀さんの言葉を思い起こし、あの時ヴァーチャルに居たのは浩伺さんだけじゃなかったのか、とさえ思えてくる。

余談ながら、社会をとりまくテクノロジーの自己発展性を思う時、私たちの身体の方が実はテクノロジーのアバターだった、なんて考えも廻る。けれど少なくとも浩伺さんはそれではないと思えた。テクノロジーに描かされているのではなく、あくまでそれを一つの場としているように見えるから。質疑応答で答えていた「既にある線によって、次のストロークが決められていく」ということが、少なくとも平面と仮想空間どちらの場においても起こるということ。それはデバイスの手前にある、メディウムとしての絵画に培われた感覚に依拠していることだと思う。制作中、大田さんに肩をたたかれるとピタリと静止する姿は、どこかアンドロイドのようでもあったけど。

三保谷将史(写真家)

今回、「アシスタント」として参加させていただいたVR公開制作は、まだ発展途上であるXRアートアクティビティーの一つの道しるべとなったと言えるでしょう。
美術作家・サウンドインスタレーションアーティスト・XR/Webクリエーターという3つ所異なる分野が、XRというボーダレスなプラットフォームをまたぎ相互作用することで、「次世代の表現世界」を作り上げているのを目の当たりにしました。
一般的なアートでは、作品と鑑賞者の二つの「点」が結ばれ、「線」という関係を生んでいたように感じますが、今回のインスタレーションでは、作品・鑑賞者の間をHMDが取り持つことで、三つの点による「面(空間)」の異方的な関係を生んでいました。
具体的に言うと、ここで言う「異方的」とは、『鑑賞する環境・角度・スケールなど様々な要因によって、受け取る刺激に多様性がある。』ということです。
単に一つのXR作品といっても、この様々な要因が鑑賞者にそれぞれの没入感を与えているように私の目には映りました。
これは、XRの特徴である「没入感」を巧みに操った一例として、次のステップへのバネになったように感じます。
アートは常にテクノロジーと影響を受け合い、時に歴史を彩りながら進化してきたことに目を向けると、「XR」が大衆化してきた今この瞬間が、私たちにに新たな体験を与える黎明期なのではないかと期待しています。

haku(学生)

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